文化に対する各階級の距離の取り方

文化的命令は、教養ある人々の世界に所属していることを、まさにこの所属を規定している規則に従うことで、表明しようと思っている人々だけを拘束するので、観光旅行によって促進される美術館訪問の実践の強さは、最も教養ある階級(より高い受容レベルによって定義される)ほど強くなるが、たいていの場合偶然による訪問者にすぎない庶民階級にとって、観光旅行による移動はせいぜい補足的な訪問のチャンスをいくらか与えるにとどまる。教養ある階級のメンバーは、彼らの社会存在の一部をなす当為として押しつけられる文化的義務を呼びさまされていると感じるのに対し、自分たちを取りまいている文化的・美的規範(たとえばインテリアを派手なポスターより複製絵画で飾ったり、シャンソンよりクラシック音楽を聞いたりする)から実践において手を切っている庶民階級のメンバーたちは、「教養を持とう」とする努力を「ブルジョアのまねをする」ためのものと感じとる仲間たちによって、正気にもどるよう思い知らされる。また、中流階級の文化的良心は、社会的上昇の一効果であると同時に、ブルジョアの権利(と義務)へのアスピレーションの本質的な一側面である。アスピレーションというものはつねに客観的なチャンスによって測られるのであるから、知的文化に近づきたいという野心とその実際の獲得は、文化的改宗の奇跡的な産物たりえず、事実上、社会経済条件の変化を前提としている。

ピエール・ブルデュー,アラン・ダルベル,ドミニク・シュナッペー著/山下雅之訳『美術愛好:ヨーロッパの美術館と観衆』木鐸社,1994年(原著1969年),pp.49-50(強調引用者)

二重のフレーム

中河伸俊「フレーム分析はどこまで実用的か」中河伸俊・渡辺克典編『触発するゴフマン:やりとりの秩序の社会学新曜社,2015年,p.135.

こうしたプレイマリー・フレームワークは,人びとの社会生活の組織化の基盤であるだけでなく,ベイトソンが観察した哺乳類の“けんかごっこ”のように,ときに(とくに社会的なものは,ただしときには自然的なものさえもが)フレーム変換される。争いにおける攻撃や追跡のモーションが,たとえば噛んだり前肢で撃ったりする仕草をしても歯や爪を立てないというように体系だったやり方で変形され,参与する個体間で「けんか」と「遊び」の二重のフレームが共有されて,その活動についての参照枠となる。

 

マクルーハンとコンピュータ

中田平『マクルーハンの贈り物:インターネット時代のメディアを読み解く』海文堂,2003年,p.17.

Larry Press, McLuhan Meets the Net, Communications of the ACM, July 1995, Volume 38, Number 7, p.15. 「マクルーハン,インターネットに出会う」という論文は,「マクルーハンはコンピュータがコミュニケーションメディアであることを知っていたが,『メディア論』のなかでも,その後の論文のなかでも,まったくそれについて論じることがなかった」と書いています。確かに,時代の制約のためにマクルーハンの『メディア論』でコンピュータやネットワークのことは論じていません。しかし,講演やラジオ,テレビその他ではコンピュータについて示唆的な発言をしています。

 

柳田國男にみるオプション価値説

柳田國男「文化と民俗学」第七節末尾

文化という言葉をただの借物でなく、我々国民の生活用語とするには、ぜひとも最初にこれが無数の分子の、組合せから成り立っていることを、承知させておく必要がある。それには毎日使い馴れて、気づかずにいるほど手近なものと、境涯と資力次第で、利用することもできるというくらいに、遠くの方にあるものとが入り交っているということを、常識にしておけばよいのである。たとえば私などは都市の中にいるけれども、もう二十年以上も芝居や相撲に行かず、陸上協議会や拳闘とやらは写真でしか見たことがなく、時間が惜しいので音楽会には十四五年、絵の展覧会にもこの五六年は行かずにいるが、それでも可能性だけはあるのだから、こういうものも私たちの文化の一部なのである。